ほうこうチラ裏

ほうこうレポートのサブブログ

時の流れは年齢では変わらない。


よく「年を取ると一日が早くて……」と言っている人を見かける。
よく「社会人になってから時間が経つのが早くて」と言っている人を見かける。

へぇ、そうなんだ。年を取るとこうなるんだ。社会人になるとこうなるんだ。

そう思っていた。


最近になって、僕はそれが少し疑わしいと思い始めた。
僕の時間の流れは、早くなるどころか遅くなっている気がする。
社会人になって1年目なわけだけど、もう大学時代のことなんてほとんど体感として覚えていない。
あんなに毎日楽しく、毎日ポケサーのためにと頑張って過ごしていたはずなのに。
大学時代も、高校時代のことなんて何一つ覚えていないとよく言っていた。
高校時代だって、勉強にも悩んだはずだし、確かなんか色々出来事があったと思う。

じゃあ逆に、時間が経つのが早い時について考える。
一つのことで楽しく遊んでいるとき、あるいは集中して作業をしているとき。
休日にブログを書いているときは、早い。
GBLでしゃべりながら対戦しているときも、早い。
楽しい/有意義なことは、早い?
いや、なんとも違う。
だらだらとTwitterを見ている時間も同じかそれ以上に速いと思う。
家にいると、あれ、なんか今日何もしてなくない?と感じることが多い。


じゃあ何が時間の長さを変えているか。
心の充実度合い、だと思った。

こういう推論から信じに行くのは、仮定が間違っていた場合にすべてが破綻するのでよくないのはわかっているが、そう考えるといろいろなものに説明がついた。

社会人になってから、僕は既にかなり充実していると思う。何個大会運営をしたかわからないし、遠出の機会が格段に増えた。学生の頃に本来はやることな気がするけど、家以外で泊まることが増えた。
こうした充実で時間が引き伸ばされて以前の記憶が遠くかなたに行っていれば、そりゃ大学時代のことなんか覚えていない。
大学時代も同じで、頑張って活動していたから体感時間が長くて、高校以前が遠い昔になった。

逆に、本来体感時間が長いとされる子供時代はどうか。
ほとんど記憶がない中で、体感時間について唯一覚えているのは「また明日が来ちゃうな……」と思った記憶だった。
別に小学校が辛かったわけではなくて(母曰くかなり辛く思っていた時期もあったようだけど)。
当時家庭のルールで、「一定の勉強量を終わらせた場合、規定時間だけゲームができる」という仕組みになっていた。
一定の勉強量はともかく、ゲーム時間は規定でよかったと今の僕が思っていることは置いておき。
寝る前に毎日「明日になったらまた勉強量が復活するんだよな。またやるのか」と考えていたことだけを覚えている。
これは体感時間が短い例だと思う。嫌なことが近く連続しているという旨の気持ち。
中学の時は、ネットの海と読書にお熱だった。その時何を考えていたかとかは一個も覚えてなかったけれど。

多分、小中時代の僕の体感時間は短かったんだと思う。世間一般的な認識とは真逆で。
「心の充実度合い」が時間を変えるとすれば、僕の例には当てはまると思う。

12/1に福島旅行に行ってそれが確信に変わった。
一緒に行った3人と、たった2日間の出来事だったとは思えないと笑いあったから。


人生は物語だと思う。
話が飛ぶように聞こえると思うけど、飛んではない。

というのは。
物語にして面白い部分では、それだけ描写に文を多く使って、物語が長くなる。
めちゃくちゃ頑張ったシーンなんて、数秒の世界を何ページにも渡って書ける。
「今日は大事な大会当日。」ここから何百ページでも書ける。
一方で面白くない部分は、「~~をした。」のたった一文で何時間でも、何日でも、何か月でも飛び得る。
「起きた。仕事をした。夕飯を食べた。寝た。」一日が経過する。
「そんな日々を繰り返して、季節が2周した。」仕事の毎日が2年経過した。

充実した人の人生は長いし、充実していない人の人生は短い。
面白いことをしている人の小説は長いし、面白くない人の小説は短い。
「心の充実度合い」だとふんわりしていてイメージを掴みづらいけど、「物語の描写量」って言葉だと何となくイメージが掴みやすい。少なくとも僕は。

人生の体感時間は、自分を物語にしたときに、その時間の描写量に比例する。
こんな理解になった。

世間一般の話ともすり合わせてみる。
子供時代は長い。初めて見るものに関しては、気持ちの描写がいくらでもできてしまう。
子供や青年を描く物語が多いのも、初めての事柄が多ければ多いほど心の動きも多いから。
社会人になってからの時間は早い。さっきのとおり、「仕事をした。」だけで人生のその日の描写が住む人が何人いることか。
年を取ってからの時間は早い。体が老いてくればそれだけアクティブには動けなくなる。動けないということは、それだけ描写できるイベントの数が少なくなる。物語は短くなっていく。

先ほども書いた通り、決めつけてから証拠を探しに行くのは正解を求める論理として、いい手段ではないんだけど。
でも感覚の話に理論なんてないし仕方ない。

………………
…………
……

ここで、逆に考えてみたい。
この理論が正しいとして、人生における体感時間を伸ばす方法を探りたい。
体感時間を伸ばすには、自分の人生の物語をなるべく引き伸ばしていけばいい。
要するに、決められた時間の中でいかに読者が見て退屈しないように尺を稼げるか。

それも、物語を作るのが上手い人ばかりではないのだから、簡単に尺を稼げる方法が欲しい。
人生の体感時間を伸ばす方法は、このような問題に置き換わる。


僕は小説を実際に書いているので、この答えはすぐにわかる。
新しい展開を入れ込んでやればいくらでも物語は引き伸ばせる。
登場人物に何かアクションを起こさせること。これが答え。

同じ文量を書かなければいけないとしたとき、
「一人用のゲームで潰す一日」よりも、「誰かとどこかに行って何かをしゃべる」のほうが圧倒的に字数が稼ぎやすい。

もしくは同じ行動でも、「趣味でゲームをやっている人のプレイ」より「プロゲーマーのプレイ」のほうが格段に描きやすい。日々の鍛錬フェーズにも意図=描写可能な内容があるから。

誰かと会うこと。どこかへ行くこと。何かを目指すこと。
他にも物語を書きやすくする方法は見つければあると思うけれど、一つこの辺りは物語の字数稼ぎとして使いやすいと思う。
もっと言えば、同じ物語でも登場人物を増やせばそれだけで字数は膨れ上がっていく。
「友達」を作るみたいな定常的に物語を増やす装置ができなくても、誰か新しい人と喋ることでその場その場の物語の嵩増しができると思う。


また、描写次第で同じシーンでも文章はいくらでも引き伸ばせる。
一つ一つ自分を描写していけば、それだけたぶん体感時間も長くなるのではないか。
「トンカツを食べた。おいしかった。」
「揚げたてであることが説明されずともわかる、湯気の立ったトンカツが目の前に降臨した。唾を飲み込み、手を合わせる。いただきます、と誰に言うでもなくつぶやいて、一切れに箸を伸ばした。サクッと衣が少し崩れる音。…………」
多分こういうこと。
何となく思ったことや何となくした行動について、意図や自分の気持ちを言葉にしてみると、もしかしたら少し違うかもしれない。
上の例でいうと、上の文は「トンカツがおいしかった」という情報だけ。
下の文はそれに「揚げたて」「衣がサクッとしている」みたいな追加情報を付与して文章量が多くなっている。これを実際の体感でもできると、文章量=体感時間が延びる……のでは? たぶん。






字数を盛りながら生きていこうと思う。
自分の中で意味があると定義できそうな行動をなるべく増やして、意味がなさげな行動をなるべく減らす。
疲れてしまうので、あくまでなるべく。




何の話?
まとめると

体感時間は長ければ長いほどたぶん楽しい。
体感時間は自分の選択と意識次第でたくさん引き伸ばせる気がする。年は関係ない。

みたいなことを思ったよという話。





何いきなり悟ったみたいな顔して。

いや、昨日行った福島旅行が楽しかったもんで。
最近頑張って人に話しかけたり、人を誘ったりしていたんだけど、そのおかげだったなぁと思った。
結局自分が頑張ったことを肯定するために適当な理論っぽいものが組まれただけかもしれない。